へこたれない火の粉
――パフォーマンス・アートに関わって25年

霜田誠二

パフォーマンス・アートとフェスティバルの時代

ほとんどの表現が、たった一人の人間の動機と発意と工夫によって成り立っているパフォーマンス・アートに関わってかれこれ25年が経つ。その前に何をしていたかといえば、水泳やバスケットをしたり、高校紛争時代のデモの中にいたり、詩のミニコミを出したり、変なオブジェを作ったりしていたのだから、自分としては確かに選び取って進んできた人生なのだろう。しかしこの分野がこのような発展をする時代に生きているのは、確かに幸運なことかも知れないと最近は思う。言葉の向こう側の何か奇妙で豊かな、しかし他の手段では表現しがたいものを表現したかったという思いは、いまも続いている。

 最近も昨年行ったニューヨーク公演に対する私のベッシ−賞受賞を報じた地方新聞が、パフォーマンス・アートとは肉体を用いた芸術表現と解説したがそれは違う。私達が用いているのは肉体ではなく、行為だ。演劇や舞踊のような特別の訓練をすることなく、それでも私達はごく簡単な小道具とともに人々の前に立って何かを行う。何故、多くは美術や詩を背景にした人々が舞台芸術家のように人々の前に立つのか。それは、それに至る動機があったからだと答えるしかない。一篇の詩を書く鉛筆を、あるいは絵を描く絵筆を行為に持ち替えて、ノートやキャンバスの替わりに空間と時間に向かう仕事。

 様々な実験が試みられたと言われる50〜60年代で終わった、少なくとも70年代の初期には完全に終わったと思われていたこの分野の、90年代の再びの動きは目覚ましいものがあった。私はその渦中にいられたことを幸運だと書いた。この分野だけの国際芸術祭が開始され、まるで枯れ野に火が放たれたように各国、各地域に燃え広がったことを実際に目にしてきたからだ。

 もともとの出火場所は、89年の革命を終えたばかりの東欧のフェスティバルだと思う。勝ち取った表現の自由の手触りを探るように、または元々あった前衛芸術の歴史と精神を取り戻すことが、失われた歴史への償いであるかのように開催されたポーランドやマジャール人地域のスロバキア、ルーマニア(トランシルバニア)等のフェスティバルに集まった各国のアーティストが、今度は自らが火の粉となって帰って行く。それがアーティスト主導で厳しい経済状況の中でも開催されていることを知り、待っていては誰もこのような企画を行わないと既に知っていたからだ。そしてなによりこんな形の芸術祭が必要なのは、自分自身であることを知ったからだった。

ニパフ

そのように、私は93年から「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(ニパフ)」を始めた。火の粉なんだから、それを遠くに運びあおる風と燃え盛るためのわらか何かがなければすぐに消えてしまったのかも知れないが、毎年2〜3月頃に行っているニパフは国内数都市の開催で、今春第7回目を終え、現在第8回ニパフ01の準備に入っている。また、年1回の開催では紹介しきれないほどのアジアのアーティストの存在を知り、96年からは「アジア・パフォーマンス・アート連続展」を開始し、同時にその招待芸術家と共に次世代の育成と更なる相互理解を目的とした「ニパフ信州サマ−セミナー」を開始した。これらも今年夏にセゾン文化財団などの助成を受け第5回目を終了した。つまり私達は、現在一年に2回の国際芸術祭と1回のセミナ−を毎年行っている。

過去7回のニパフと5回のアジア連続展で招待した海外芸術家数は101名、29カ国に及んでいる。この数は、十分に誇れる数だろう。そのほとんどが初来日で、思わぬ大物も多く混ざっている。あるいはそれをきっかけに大物になった若い芸術家も多い。彼等の初来日や初の日本公演、時には初めての自国外の公演を私達が担ってきたことは、全く栄誉なことだと思う。

現在は各国芸術家からの参加申込がたびたび来るようになっているが、基本的にアーティストの選考はディレクタ−の私が過去に直接その作品を見た人から選んでいる。そのような機会のなかった人には悪いが、今も活発に世界の芸術祭に出演し各地のリサーチも重ねている私としては、限られた予算の中でニパフのラインアップに責任を持ちたいから当然だ。

そしてアジアではこの分野の初の本格的な国際芸術祭として、私達が招待したアジアの芸術家達がそのニパフ体験を通じ火の粉となり、現在タイ、インドネシア、フィリピン、中国などで同様の芸術祭が始まっている。火の粉になった彼等を受け止める十分なわらと必要な風が吹いていたのだろう。それらのフェスティバルには、まだフェスティバルは始めていないものの十分な活動をしている周辺諸国の芸術家達が集まっているから、更にこのフェスティバル開催の動きは各国に広がって行くだろう。

フェスティバルの時代なのだと思う。テレビのニュース番組が増え、インターネットが普及し、それでもたった一人の人間がやって来る豊かさには負ける。それが自分と社会に対し表現しようとするアーティストならなおさらだ。私は83年2月にパリ市立劇場で初めて見たピナ・バウシュとブッパタール舞踊団のあり方と作品の持つ勇気と真実を今でも敬愛しているが、そこで採られた個人の創造性と出自から来る真実を尊重した創作方法と作品の更なる形として、90年代から始まった現在のパフォーマンス・アートのフェスティバルを捉えている。

この表現の現代性

一人一人が故郷を出てからの何時間、何十時間の旅の末のたった数日の出合い。たった数日間だからといってまごうこと無き現実であるから、そこで交換される情報は、共感を伴って単なる知識を超える。彼等一人一人の出番前の緊張と情熱の表情。創造にかける強い意志。発表の舞台としてのフェスティバル作りの苦労が吹き飛ばされる瞬間を、私達は年に2回味わっている。

交換される情報は、創作についてだけではない。彼等の滞在中に知らされる、彼の地の現実。そこで起こった理不尽な虐殺を語りながら涙を見せまいとしながらも泣く男や、民主化の過程で唄われた歌を唄う女性。平然と共産党政権下や軍事政権下での逮捕歴を語るアーティスト達。自国に誇りを持ちながらも、足りない何かを自覚し、このニパフがそれを補ってくれたと謝辞を言う人々。私達が出合っているキーワードは、パフォーマンス・アートなのだ。

「何故あなたはパフォーマンスを始めたのか」との問いに答えてくれた中で、記憶に残る答えが二つある。一つはルーマニアのトランシルバニアのアーティスト。「チャウシェスクの時代、私達(マジャール人)は常に監視されていた。もし秘密警察が理解できない絵を私達が描き発見されれば、その場で逮捕された。私達は革命前にフェスティバル開催を試みたが、絵やオブジェは危険だ。運ぶ途中に見つかれば終わりだ。パフォーマンスならば、使うものといえば小麦粉やオイルや花などの日常品、あとも残らない。各都市の仲間数人が山小屋に集まり、更に用心して屋根裏の小部屋で私達はパフォーマンスを見せあった。」

もう一人は中国の若いアーティストの答え。「故郷では絵画を学んだが北京に来てからは金もなく、輸入品が多く高価な画材は買えない。パフォーマンスなら写真をやっている友人に頼めば記録が残るから始めた。」彼はいまや国際的に活躍しているが、今でも絵画とパフォーマンスを共に行っている。同じ答えは、アジアの他のアーティストたちからも聞いた。

この二つの答えは、私達が容易に想像する「より直接的に人々に訴えたかったから、自分の作業場を出て人々の前で始めた」という答えを超えて、現実の現代の世界を伝えてくれる。チープでポータブル。あとも残らず安価なという、たぶんもっとも商業主義が嫌うもの。これがパフォーマンス・アートの現在の全てかも知れない。だからこそできることは多い。出来ないことも多いけれど。

さて、これから

私はこの原稿の書き出しを「皆さんは焼き鳥や焼き魚でいえば、何が好きだろうか?私は、豚の様々な臓物や魚でも内蔵や目玉の辺りをつまむのが好きだ。その辺りに深みと旨味があると知ったのは、早熟の高校生の頃だった」と挑発的に開始してみようかと迷った。

深みかどうかは知らないが、ほとんど荒野となっていたこの分野に長くいると様々なことが見えて来る。かなりな個人的作業であるから、試されているのは個人の創造性だ。だからやりがいはあるが、悪戦苦闘の連続に違いない。

今年3月のニパフは、ジャカルタの3日間から始めて、その後台北と国内3都市を巡演し、2週間に及んだ。今年7〜8月に開催したアジア連続展は、マカオと香港で各2日間開催したあとに国内3都市を巡演し、信州の高原でサマ−セミナ−を3泊4日の日程で行い、全日程は17日間に及んだ。海外アーティストと共にこんなに漂流する芸術祭は、他にはめったにない。少々のことではへこたれない火の粉が、また作られていっただろう。

作品の発表は、一晩に8名から10名ほどのパフォーマンスを次々と行っていく。もちろん屋外やロビーが使えれば場所を選んでもらうが、多くの場合限られた時間で同じ空間を次々と使ってもらうことになる。パフォーマンスのあり方から見ると邪道だという人もいるが、私達がやりたいのはフェスティバルだから仕方ない。限られた時間、空間の中でより多くの作品を見てもらい、この表現の幅と可能性を知ることができる。それは芸術家たち自身にも必要だ、特にその機会の少ない国から来た芸術家には。

とにかくやるからには10年はやってみようと始めたニパフだが、開始した当初より減った苦労もあるし、増えた苦労もある。相変わらず、日本の入国ビザを取ることが容易でない国は多いし、そんな国に限って是が非でも招待したい芸術家がいる。航空運賃の値下げやE-mailの発達で減少している経費もあるが、国内滞在費や移動費など招待人数が多ければ多いほど、また日程が長ければ長いほど驚くほどかさむ経費も多い。

しかし、当分私はニパフを止めないだろう。一昨年からニパフ出演の日本人を連れての海外公演をフランス、アメリカ、ポーランド等の各都市で成功させているし、現在開始したアジアのフェスティバルを繋ぐ「プラットフォーム・アジア・パフォーマンス・アート(パパ)」のアジアのアーティストとの各国の旅も企画している。また、これからフェスティバルを始める国からアドバイスを求められることも多い。国内の展開も更に考えたいと思っているし、資料の整理も進めたい。うちの町や施設でもやりたいと思う方の連絡は、いつでも待っている。

それにしても、いつになったら報われるのかという思いと、既に充分報われているという両方の思いを持ちながら、ニパフの合い言葉はなんだろうか。日本より表現の制約の多い他国の芸術家に敬意を表するならば、「もっと自由を!」ということか。この時代に、自由とは充分に深みと旨味のある言葉に違いない。

霜田誠二(しもだ・せいじ)

1953年長野市生まれ。71年長野高校を一年間休学中に詩を書き始める。75年大阪市立大学二部文学部在学中に身体表現を始める。77年上京後、都内及び国内ツアーを開始。82年パリに3ヶ月滞在。帰国後アートイベントを企画。87年から西ヨーロッパの公演旅行開始。90年から東ヨーロッパ、アジアの公演旅行開始。現在までに30カ国120を超える国際芸術祭に出演。93年から「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(ニパフ)」を開始。96年夏から「アジア・パフォーマンス・アート連続展」を開始。98年からこの分野の日本人芸術家の本格的な海外紹介や、海外での日本やアジアのパフォーマンス祭の国際共同企画も多数行う。昨年アジアのパフォーマンス祭を結ぶ「プラットフォーム・アジア・パフォーマンス・アート(パパ)」を設立。今年9月に、ニューヨークのベッシー賞を受賞。この分野の世界的な流れを作る一人と言われている。

なお、ニパフのパンフレットや記録ビデオなどの通信販売の問合せはTEL&FAX 026-224-0748E-mail:nipaf@avis.ne.jpまで。